古川巧 art diary

よい作品とは、何度見ても飽きないもの!

海北友松の初期と最晩年の作品について 友松その2

海北友松その2

友松の出生は、近江の大名浅井長政の家臣の子に生まれています。
その家臣とは、浅井長政に仕えた海北善右衛門綱親の三男として天文二年(1533)、近江国坂田郡に生まれました。友松の息子が描いた「海北友松夫妻像」の賛に書かれています。ややっこしいことに、友松の孫が、聞き伝えで書いたものと思われます。こういう賛は、友人とか師匠が書けば分かりやすいのですが・・・!そういうことはしませんねえ?父・綱親は、雨森弥兵衛、赤尾孫三郎とともに小谷三人衆と呼ばれた勇猛な武者として知られていました。天正元年(1573年)小谷城織田信長に攻められて落城した時に討ち死にしたとされる説と、落城から40年前の死亡説の二つあります。この時代はきちんとした家系図がなくなにをもって、真実かよくわかりません。本人が自分の画論を書いてくれれば、一番楽なのですが・・・!

友松は、若くして東福寺に預けられたと言われていますが、東福寺にそれらしき資料がないのです。
そして、狩野元信に師事したらしいのですが、それも定かではありません。永徳に師事した説もあります。しかし、初期の作風は元信風の影響が顕著に表れています。


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「菊慈童図屏風」六曲一隻 岡山 蓮台寺

元信風の背景に、友松独自の人物が描かれています。署名や印がなく謎の作品といわれていました。それに岡山に縁のない友松の作品が何故にここにあるのかも謎!

作品を詳細に見てみると、松の枝など。1本1本が細かく描かれています。松の描き方は、雲谷派の画家も似たような描き方をしています。桃山の様式でしょうか?
岩の描き方は、元信、永徳風です。太めの線描で輪郭を取りいろいろな太さの直線で岩描写しています。
しかし、岩の描き方に狩野派らしさが出過ぎているので、もしや、師事し始めた友松との合作ではないかとも、考えられます。狩野一派はきっとたくさんのアシスタントがいたはずです。
僕の持論ですが、いい歳こいだおっさんが若い永徳に師事したとは、考えられないのですが・・・?

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月下渓流図屏風 六曲一双

こちらは、最晩年の作といわれる作品です。
松の葉っぱは似たように描かれていますが、画面全体は初期のころのように細かくは描いていません。
筆の流れとともに、画面を構成しています。所謂 没骨法もっこつほう)といわれる、輪郭を描かない画面に形と色を同時に表すという技法ですね!

ほとんどの画家は年齢を重ねて来ると、こういう感じに流麗な筆致になります。
作品には、友松のサインと落かんがあります。
この作品は、アメリカのネルソン・アトキンズ美術館(カンザス
に収蔵されているそうです。









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